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上杉氏・佐竹氏の処分

10月に毛利氏の処分が決定し、11月には島津氏が謝罪したことにより、西軍に加担した大大名で処分が未決となっているのは、関ヶ原の導火線となった上杉征伐の張本人である上杉景勝と、態度を曖昧のままにしていた佐竹義宣の二人となった。

景勝は最上義光・伊達政宗の連合軍と出羽長谷堂城を中心に激戦を繰り広げたが、9月30日に西軍敗走の一報が伝えられると直ちに撤退した。勢いづいた最上義光は庄内へ攻撃を開始、伊達政宗も10月6日より桑折への侵攻を開始している。景勝は防戦する一方で家中に今後の対応を協議した。この中で直江兼続や甘糟景継、竹俣利綱らは徳川との徹底抗戦を主張するが、本庄繁長や千坂景親らは和睦を主張している。最終的に10月23日に和睦の方針が決定され、主君の意を汲んだ兼続は主戦派の「江戸へ南下するべし」との意見を退けた。交渉には本多正信と親交の深い千坂景親と和睦を主張した本庄繁長が任命され、以後正信を始め東軍の対上杉防衛軍総大将であった結城秀康、本多忠勝、榊原康政らに取り成しを依頼した。彼らの取り成しにより当初領地没収を予定していた家康も、次第に態度を軟化させていった。

年が明けた1601年(慶長6年)7月1日、千坂・本庄両名の報告などから和睦が可能となったことを受け景勝は兼続と共に上洛し、秀頼への謁見後8月8日結城秀康に伴われて伏見城の家康を訪問し謝罪した。上杉氏への処分は一ヶ月ほど経った8月16日に言い渡され、陸奥会津120万石から75パーセント減の出羽米沢30万石へ減封となった。景勝はこの時「武命の衰運、今において驚くべきに非ず」とだけ述べ、11月28日に米沢へ移動したがこの処分に不服であった酒田城将・志田義秀は、接収に来た最上軍と一戦を交えたものの降伏している。
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一方佐竹義宣は、三成との親交から西軍への加担を決め、景勝と密約を結び上杉領内に入った徳川軍を挟撃する方針を採っていた。このため上杉征伐では動かず、与力大名である岩城貞隆、相馬義胤、多賀谷重経もこれに同調した。しかし佐竹家中では父である佐竹義重、弟で蘆名氏を継いだ蘆名義広、佐竹氏家臣筆頭である佐竹義久が東軍徳川方への加担を主張した。特に父・義重は、東軍への加担を強く主張し、これに抗し切れない義宣は、佐竹義久を中山道進軍中の徳川秀忠軍へ兵300と共に派遣する、曖昧な態度を取った。しかし家康はすでに佐竹氏の動向を疑っており、松平信一や水谷勝俊などを佐竹監視部隊として国境に配置。秀忠も義久ら派遣部隊に対して丁重に謝絶している。

西軍敗北後父・義重は直ちに家康に戦勝を祝賀する使者を送り、さらには上洛して家康に不戦を謝罪した。しかし義宣は居城である常陸水戸城を動かず、そのまま二年が経過した。上杉氏も島津氏も謝罪し、残るは佐竹氏のみとなったが、義宣はなおも動かなかった。しかし、義重の助言により1602年4月に上洛し、ようやく家康に謝罪した。しかし家康は義宣の観望について『寛政重修諸家譜』の中で「上杉景勝より憎むべき行為だ」として厳しく非難。死一等は許されたが常陸一国54万石は没収され出羽久保田に20万石格での減転封となった。また与力大名である岩城・相馬・蘆名・多賀谷の各大名も改易となった。義宣はわずかな家臣を連れて久保田へ移動したが、転封に反対して車斯忠らが一揆を起こしている。佐竹氏の石高が確定するのは、二代藩主・佐竹義隆の代になってからである。

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2009年05月29日 08:20に投稿されたエントリーのページです。

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